TAKUYA TSUDA

津田卓也

私は研修はエンターテイメントだと考えています。

楽しくワクワクする研修だからこそ身につくのです。講師は、教師ではなく、「ファシリテーター」、「モチベーター」、なにより「エンタテナー」です。多くの人の心に進化の火をともす!それが私のモットーです。

津田卓也

講師紹介

クライアント様からリピート指名率100%のご好評を頂き、現場目線の熱い講義が世代・職位・男女を問わず、多数の受講者の方々から支持されています。ブックオフのアルバイトスタッフから店長に抜擢された後、現場リーダーとして人材教育や、いかに成果を出すかということに力を注いだ実践力について、自身の経験を交えながら研修を行うことで、現場で働く受講者の方々から特に高い共感をうみ、「非常に勉強になった」と評価されています。

また、津田講師が行う「クレーム対応研修」は、国内講師随一の登壇数を誇る極めて完成度の高い研修です。顧客満足に繋がる一般のクレーム対応だけでなく、最近社会問題ともいえる特殊(教育型,病的)クレーム、悪質クレームの対応まで幅広いニーズに応える研修を行います。
受講者の方々のヒューマンコミュニケーションスキルを高める、津田講師独特の研修スタイルは、研修後も徐々に業務効率を向上させる研修として好評を博しています。
クレーム対応研修、OJT研修、新入社員フォロー研修など、実績多数。

講師略歴

1995年ブックオフコーポレーション株式会社に入社
1997年店長となる
1999年正社員となった後、東京エリア、エリア・マネージャー就任
3年間の単月平均前年比売上125%を達成
2000年ブックオフコーポレーションの年間MVP獲得 前年対比売上150%以上を3度達成
2003年和食の名店(いろり処「雲母(きらら)」:広尾)に入店 
2004年店長就任
2006年登壇件数 年間200超 登録研修会社の社外部講師を多数育成
2007年登壇件数 年間200超(内、多数がクライアント様の「津田」指名登壇)
同年11月、「Cube Roots」を株式会社に変更し、新体制で本格的に活動開始
2008年Cube Roots主席講師として登壇開始

書籍紹介

研修風景

実績

金融庁、国立国会図書館、日本政策投資銀行、国立美術館、日本貿易機構(JETRO)、日本原子力研究開発機構、日本学生支援機構、静岡総合研究機構、統計センター、市町村アカデミー、千葉県自治研修センター、伊勢志摩地区市町村協議会、熊本県庁、福岡市、佐野市、柏市、佐倉市、武蔵野市、吹田市、さいたま市、宇都宮市、松坂市、島田市、高松市、葛飾区、江戸川区、豊島区、その他多数、日興ビジネスシステムズ、ジェイアール東日本パーソネルサービス、小田急トラベル、京成電鉄、西武鉄道、中央自動車工業、BMW、日立化成工業、NTTドコモ東海、伊藤忠商事、GEマネー、キリンビジネスシステム、VSN、キヤノンビジネスサポート、ジョンソンエンドジョンソン、INAX、資生堂、伊勢丹、SMBCコンサルティング、スプリームシステムコンサルティング、シーイーシー、CSKシステムズ、田辺製薬、中央コンピューター、日建リース工業、アットホーム、豊通リビング、リプラス、アグレックス、玉川病院、アイネス、PFU、その他多数、研修会社公開講座(東京・名古屋)、研修会社講師勉強会(育成講師多数)

プロフィール

株式会社キューブルーツ代表取締役、津田卓也誕生

京都生まれ、津田家の長男坊として生まれる。
大変な人見知りでどこへ出かけるにも母親のスカートを掴んで歩く子供でした。
そんな子供なので気弱で内気な子供かと思いきや、なんと幼稚園を退園する程のとんでもない子供でした。

~津田のとんでもエピソード~
何か自分にとって気に食わないことがあれば、人を殴ったり物を投げたりする学年に一人はいる乱暴者でした。言葉で伝えられない分が暴力に回ってしまった感じです。
とんでもエピソードとしては幼稚園で遠足があった時に、皆が手作りのお弁当だったのに自分だけお弁当でなくパンであった事が気に食わなかったらしく、園児全員からお弁当を回収し、窓の外へすべて投げた結果、稀に見る「退園」という処置を頂きました。(猛省)

更に、病弱で喘息持ち、
二階から飛び降りたりと目の離せない、親に多大な迷惑をかける幼少期を送りました。
わがままを極め、遊びでも当然自分のルール、野球するにも自分のルール。
まさにジャイア○のような子供でした。

そんな時、見兼ねた親から剣道を薦められます。
道のつく事に取り組んで、心を落ち着けさせようという考えだったのだと思います。 親族が警察関係に多くいたせいか、少々才能があったようで京都府の小学生の部で1位になりました。
※(ちなみに全国大会では三回戦負けでした。)

剣道という熱中出来る事を見つけますが、キャラクターは相変わらず。
中学生になってもジャイア○で、番長的な存在でした。

ですが、そんな私についに天誅が下る時がきたのです。
他所の学校から柔道をやっている、番長タイプの子が転入してきたのです。
彼と私は必然的に決闘する事になったのですが、見るも無残にボロボロにされました。
大勢のギャラリーの前での決闘でしたので、私の惨めな姿をクラスメイト皆の前で晒すことになってしまいました。
その当時自分は無敵だったという慢心もあったため、ショックは計り知れない程大きかったのです。
人生で初めて挫折という物を味わいました。
そして一番悪かったのは負けたその日から、静かなるイジメ(今までの反撃)が始まった事です。
私がクラスメイトに挨拶をしても、皆無視。
この静かなるイジメは卒業までずっーと続きました。 自業自得とは言え、本当に辛かったです。
この頃は家庭環境も良くなかった事もあり、家には帰りたくない。
学校ではクラス中、学校中から無視をされる。 自分にはもう、学校や家には居場所がありませんでした。

映画との出会い

そんな時、学校に行かず町をふら付いていた時に眼に留まったのが映画館でした。
今と違って、一度お金を払えば、昼から夜まで一日中映画を見る事が出来ましたので、本当に一日中映画を見ていました。
高校に上がっても、静かなるイジメの影響か中学と変わらず暗い高校生活をすごしました。
そんな時、人と触れ合うこと、仲間でワイワイ盛り上がって馬鹿騒ぎをしている事に憧れたのでしょう。
テレビでたけのこ族やホコ天を見て、東京に行きたいと本気で考えます。
※(勉強せずに映画ばかりみていただけに、学力は当然最低。 高校で剣道部に入り直してみるもブランクの為に弱くなっていた為にすぐに辞める・・・という同じく親不孝な子供でした。)

友達も作らず、結局中学時代と同じく、高校三年間も映画を見る毎日でした。
高校を卒業し、東京に憧れていた事、映画が好きだった、映画監督に憧れた事を親へ訴え反対を押し切り念願の上京を果たしました。
東京に出て来てからは映画の専門学校に通いながら色々なアルバイトをしたり舞台の手伝いをしました。
そんな中、専門学校を半年で辞めてしまいました。
理由は、ただ働いてみたいと思ったからです。
それから舞台演出の先輩の下で仕事を始めます。

ここで、思えば今の自分にとって大きな影響となる出来事が起こります。
あるとき、先輩の舞台に出る予定の俳優さんが病気で急遽出演不可能になり、その俳優とキャラクターが被っていた私が突如代役として指名されたのです!

何度も断りますが、何度も頼みこまれた事と、お世話になっている先輩には逆らえないという事で渋々ながら舞台に立つ事を決意しました。
渋々でしたが、実に快感であって味をしめてしまいました。
人に褒めてもらって拍手までもらえる!!!
今まで褒められた事が少なかった分、心底嬉しかった事を今でも覚えています。

この頃には映画監督の道を忘れ、役者の事ばかりを考えていました。
※(今井雅之さん、ラッキー池田さんと同じ劇団。エドはるみさんとは演技学校の同期でした。また、ウッチャン、ナンチャンや出川哲郎さんがまだブレークする前から知っていました。)

役者として徐々に仕事も入り始めます。
北野武監督の映画、ソナチネに出演、美味しんぼ、悪魔のキス、(悪魔のキスでは宇梶剛士さんが相棒役。)

朝昼は警備員のバイトをし、夜は稽古に明け暮れる日々でした。

そんな20代の半ばに考えた事がありました。

役者を続けるのか?募る不安。ブックオフでアルバイト…それか
ら社員に

このまま役者として芽がでなかったらどうしよう・・・
30歳近くになり不安はどんどん募っていきました。

そんな中、父が倒れ、母まで立て続けに倒れるという出来事がありました。
そんな二人を見て初めて、(今まで何も親孝行しなかったな。酷い息子だな・・・)と思いました
これで両親が死んじゃったら本当に後悔するな・・・と思ったのを今でも克明に覚えています。
そんな時、母親の意識が戻りました。
私はベットの脇からぽつんと意識の戻った母親に言いました。

私「親孝行しなくて悪かったね。悪さばっかりで・・・元気になってくれてよかったよ。これからどうやって生きていこうかな・・・」
母「別にさ・・・あんた、すごい本が好きじゃないの。 役者辞めるとか辞めないか考えないでいいじゃないの。アルバイトをするなら、好きなことをしてみればいいじゃないの?本屋さんで働いてみたら?」

母の一声で、悪い方向に考えることをとにかく止めて、役者を続けながら本屋でのアルバイトをする事にしました。
しかし、仕事に対する意欲が相変わらず低かった私は、忙しそうな新書を扱っている本屋では無く、楽そうなイメージが強い「古本屋」に面接に行く事にしました。

でも、大抵の古本屋は時給が安いのです。 そんな時に今やちょっと大きな駅前であれば、大抵あるB社に面接に行くことにしました。(当時のB社はまったくの無名でしたが)

(B社は古本屋の中でも時給が高かったのです。)

母の一声で始めた仕事ですから、真面目に働くと皆さんお思いでしょうが、全くそんな事は無く、私は仕事を舐めていました。

いい年をして、店内をローラースケートで走り回って遊んでみたりと正に不良スタッフでした。

その頃はどういうわけか・・・「バイトなんて一生懸命やってられないよ!」と考えていました。

そんな時、私の運命を変えてくれる出会いがあったのです。
それは、パートアルバイトから上場企業の社長になったHさんとの出会いです。

不良スタッフだった私を叱ったり、仕事を押し付けたりせず、上手く育てて下さりました。
今になって考えると、流行のコーチングの技術で上手く私に気づかせて下さったのだと思います。
Hさんと接していくうちに、自分の様な人間でも頑張れば何でも出来るんだ・・・という気持ちになっていきました。
更に、自分はどういう人生を送りたいのだろうか・・・という、子供のころからの悩みも Hさんに気がつかせて頂きました。

Hさんからは沢山の素晴らしい言葉を頂きましたが特に印象深かったのが
「出来ないとか無理だとかじゃなくて、自由にストッパーをはずして、創造しようよ。
そこ(目指す所に)に行っちゃいましょうよ。その為に時間を使いましょうよ。
アルバイトだからとかじゃなくて、あなたの人生の為に頑張りましょうよ。
という言葉でした。

それからは人間が変わった様に一生懸命働きました。

段々と他のスタッフからも信頼をされるようになり、一層仕事に身が入り始めました。
そんな姿を本部から評価して頂けまして、アルバイト店長にさせて頂きました。
B社では色々な賞があるのですが、MVPにも選んで頂けました。

そんな時期にB社が初の海外視察をするという話があり、アルバイト代表として香港へ無料で行ける事になりました。
最終日に、S社長(当時)と夕食を頂くことになりました。
その時、S社長に社員にならないかと打診されました。

役者を目指すか・・・社員になるか・・・考えているとS社長が
「お前の人生は俺が保障する!やってみろ!」
との言葉とNOとは言えない雰囲気によって、売り上げを一番上げている店長の後任となりました。

60人くらいのスタッフを率い、働きに働きますがそれに反比例するように売り上げが下がりに下がってしまいました。
その時は毎日こんな事ばかり考えていました。

(何でこんなに朝から晩まで寝ないで働いているのに売り上げが上がらないどころか下がる一方なんだ・・・そうだ、スタッフが悪いんだ!!!)

それからは常に、朝から晩までイライラカリカリしていました。
勿論、店の雰囲気は最悪です。 そんな時、本部からHさんが電話をかけてきました。

「アルバイトがしっかり働かない?あなたもそうだったじゃない!スタッフのせいにしちゃだめよ。最近、かっこつけているんじゃないの?
こんど朝礼に私も参加するからどんな朝礼をしているのか見せて見なさい。今まではスタッフに売り上げを上げろ!
ってただ一方的にどなって押し付けていたりしたんじゃないの?そうじゃなくて、自己開示をしなさいよ・・・」
またしてもHさんに考えを変えて頂けました。 それからは朝礼が変わり、ミーティングが変わりました。
今までは一方的な押し付けだったのが、皆が主体になり、自発的になりました。
更に、新しい試みとしてスタッフの働きぶりについての評価基準を作って、努力が結果にはっきり繋がる制度を作りました。

~感動エピソード~
私が、店長をしていた時、Tさんという非常に内向的で声を掛けても全然顔を上げてくれない女性アルバイトがいました。

彼女が面接に来たとき、通常の状態でしたら採用とはならなかったはずですが、人手不足のピーク時でしたので採用(やむなく)をしました。
最初の半年は、冒頭のとおり、声を掛けても全くこっちを見てくれない。

話をしても目を合わせてくれない。下を向く。何をするにも縮こまっている。お客さんの顔すら見ない・・・
私とは全然違ったタイプの困ったスタッフでした。
そのTさんになんとか前を向いてもらいたい!と私は強く思い、様々な努力して、日々接しました。
※(前を向いてもらう方法は、Hさんが私にして下さった方法を参考にさせて頂きました。)

思いは徐々に通じはじめ、Tさんは段々明るくなり、話を聞いてくれるようになり、こっちを向いてくれるようになりました。
Tさんが変わっていくにつれて、スタッフのやる気もあがり、店の雰囲気はどんどんよくなっていきました。
雰囲気は売り上げにも比例し、4年間前年比を割ることなく、しかも目標達成の連続という本当に良い循環になりました。
そんなTさんが晴れて就職が決まって店舗での最後の出勤日。
別れの日の終礼に、Tさんは泣きながらこんな事を言いました。

「私は、こんな性格だから学生から社会人になれる自信が無かったです。アルバイトも出来ない、続けられないと思っていました。自分は駄目な人間だと思っていたけど、このお店で、皆と一緒に仕事をするようになって人前で話が出来るようになりました。人の顔を見て話が聞けるようになりました。本当に三年間ありがとうございました。皆さんのおかげです。」

皆でお別れを言い、店の前でTさんに手を振りながら見送りました。
店から数十メートル離れた所まで進んだ所でTさんは急に踵を返して私の方に走ってきました。
そして、あの内向的で人の顔を見て話も出来なかったTさんが私の胸に思いっきり飛び込んできたのです。

私自身も昔はとんでもない不良スタッフでダメダメだったけれど・・・人から感謝して貰える様になれた。
以前の私やTさんの様な人に喜びと感動、自信を持ってもらいたい!

店長からエリアマネージャーに。激務の中でのターニングポイント。そして現在へ

この頃から私は、こういう仕事(人を育てる)がしたいと思いました。

この頃、私は社員から店長、店長からエリアマネージャーに昇進し多忙を極めました。
最終的には入院するほどまで行ってしまいました。
入院をしていても、経営の事で心休まる暇が全くありません。

そんな時、病院のベッドの上で考えました。

俺の人生は、目的は・・。いまやらなければいけない事は・・・俺の夢は・・・
店長の仕事は素晴らしいけど、俺の夢を達成する為にこの生活を続けていいのか・・・
そこで一念発起し、夢を達成するために、起業をする事を決意しました。

当時は1円で起業はできなかったので、3年間で300万円をためて独立することにしました。

3年間、飲食店(人を育てる場がある仕事をしたかったので、飲食店です。

人が育てられれば場所はどこでもよかったのです。)で宣伝を一切打たずにクチコミで大繁盛している素晴らしい店があることを聞きつけ、そこで働かせて貰おうと考えました。

勇んで面接に行きますが結果は不合格。

しかし、しつこく頼みこむと根負けしたのでしょう、働く事を許されました。

一年後その社長(店長)が病気に掛かり社長から店長になってくれと頼まれました。
その時店に来てくださったお客さんが今、キューブルーツで営業を担当している岡でした。
岡は初めて会った時からとても良いお客さんで、わざわざ店のことを褒めてくれる手紙までくれる素敵な方だと思っていました。

そんな中、企業研修をやっている会社と縁をして講師としても登録する事になり朝昼は研修、夜は店の繰り返し。それを資本金にしました。

ちなみに研修内容は「目標管理研修」でした。 これが30代の後半です。
そこから二年程、外部契約講師をします。

既に自分の会社を興していましたが研修がひっきりなしで入り、自分の会社で働く暇が全く無い状態でした。

お蔭様でどんどん人気は上がり、年間200本以上登壇する事になります。

しかし、規定によりお給料は変わらない・・・。

仕事はやりがいもあり、素晴らしいものでしたが、自分のしたいことがどんどん出来なくなっていくというジレンマに悩まされました。

そんな時、交通事故に遭いました。
研修講師として登壇できなくなった際に、私は日雇い扱いだった為、収入がぷっつりと途絶えてしまったのです。

家には妻も、子供もいます。
これはまずいと真剣に考えました。
正直、研修会社に対して、もっとこうすればいいのに・・・という思いも募っていた時でした。

だったら思い切って、今の研修会社を離れ、自分でやろうと思い始めた時に、営業の岡と再び話をする事になったのです。

岡もターニングポイントを迎えていた事もあり、話はトントン拍子に進み、共にキューブルーツをやる事を決意したのが、昨年の夏。
今はやりたい事に全力で取り組める最高の環境です。

私の夢である、南の島に暮らす。
関わった人からはありがとうと言ってもらえる。

これらの達成の為に日々、精進しています。